電話が一本

オトノ様がその電話を受けたのは、オシメ様の英語小論文試験が終わるのを待っている車中だった。これまでも、オシメ様の高校卒業・大学進学について考えるたびに子育て期が終わることについて思いをはせていたものの、実際に受験本番の場に立ち会ってみると、より生々しくオシメ様の「巣立ち」を実感し、本当に子育て期は終わるのか、長くもあり短くもあったなぁと、しみじみ感慨に浸っていたところだったそうだ。電話の主は母親で、そういえば最近連絡してなかったな、もうすぐ誕生日だったっけ、などと思いながら電話を取り、ひとつの報告を受けた。「オトノ弟が会社を辞めた」と。

オトノ様の弟、コトノ様に会うのは正月くらいだ。挨拶を交わすとすぐ引っ込んでしまう。おとなしそうという彼の印象は、この「すぐ引っ込んでしまう」点からくるもので、私が彼と交流がないという証拠でもある。大きな病気をしたこと、その影響がいまだに残っていること、夜勤のある仕事についていること、お義母さんにこまめにいろんなものを買ってあげていること(家に行くたびに、「これコトノに買ってもろてん」と、コタツやラジオ、ビデオデッキなどをお義母さんが披露してくれる)くらいしか知らない。

辞めた理由は職場の人間関係だということだったが、在籍期間はかなり長いはずで、それなりに安定していたはずなのに突然どうしたんだろうと思った。オトノ様は嫌なのを我慢してまで勤め続ける必要はないと、辞めるという選択をしたこと自体をどうこう言うつもりはないようだった。

でもさ、とオトノ様は続ける。「子育てが終わる」ことを実感して、来年からは「支出の内容や時間の使い方を自分のやりたいことへシフトさせていこう」と考え始めたまさにその日その瞬間に、こんな電話がかかってくるなんて、と。

これまでずっと、私に「早く出世してよ。俺は会社辞めたいねん」と繰り返してきたオトノ様。もうすっかり定番ジョークみたいになっていて、言われるたびに受け流していたけれど、この5月からの一連の混乱で、私は出世どころか明日をも知れぬ状態になってしまった。加えてコトノ様の件である。

「辞めるわけにはいかへんなぁ…」とハイボールの泡に顔をさらしながら、オトノ様はつぶやいている。